まず、鰹といえば高知ですね。そして「たたき」でしょう。でも、「鰹のたたき」は料理としてはやや新しく、幕末ころかららしいです。なので“日本史“として掘り下げるのはちょっと難しい。そこで鰹節にしました。 ご存知のように鰹は黒潮にのってやってきます。ですが近世では、沖合まで漕ぎ出して黒潮に乗込んで漁をすることは至難のわざです。運が良ければ銚子沖、もっと運が良ければハワイ沖でしょう。ですから、伝統的な土佐の鰹漁は、農業の合間に近場で行なう細々としたものでした。 こうした状況を一変させたのが、紀州漁民の進出です。紀州漁民は、当時としては大型の船を用いた大規模で先進的な技術を持っていましたが、17世紀中頃に足摺岬沖の優良な鰹漁場を発見して遥々やってくるようになったのです。ただし紀州藩と土佐藩との政治的な協定によって、彼等は土佐に定住することは許されず、足摺半島西岸の6つの浦を拠点として春・夏・秋にかけて鰹を釣り、鰹節を生産し、初冬には紀州へ帰ってゆきました。つまり紀州漁民は、年間のほとんどを単身赴任先で過ごし、かつ危険な漁場で多くの犠牲者を出しながら漁をしていました。土佐で葬られた彼等の墓が今でも多数、遺されています。 紀州漁民により鰹漁・鰹節生産は盛んになりますが、それで土佐の地元民が潤ったわけでなく、むしろ低賃金で雇用されたり、地場漁業が凋落するといった事態が起きます。ことに紀州漁民は、鰹節の製法を秘匿・独占しようとしたので、土佐の人々が独自に鰹節生産を行なうことはできませんでした。でもやがて土佐の地場産業化します。それは紀州漁民が単身赴任だったからです。単身赴任で遠方へ赴いた漁民は、当然(ですかね)、現地妻をもうけ、遺された子孫たちが鰹節生産を担うようになりました。そうして鰹節生産は土佐の地場産業として定着したのです。
【挿絵解説】「行厨に鰹魚を屠る図」『日本名所図会全集 日本山海名産図会』名著普及会、1975年より 土佐の鰹節生産方法を解説した図。浜近くの作業場での作業風景。鰹の頭を落とし逆さにして三枚におろすという大胆なさばき方が特徴。当時は、煮たのち天日干しするのみで燻乾はしていない。内蔵は塩漬にして酒盗をつくる。
【参考文献】・宮川逸雄「土佐の料理」『高知の研究7民俗篇』清文堂、1982年 ・中山進「近世足摺沖漁場と地元浦漁民」『高知の研究3近世篇』清文堂、1983年 ・山本高一『筑摩叢書 鰹節考』筑摩書房、1987年 ・広谷喜十郎「土佐の漁業と紀州漁民」『海と列島文化8伊勢と熊野の海』小学館、1992年